第一章

藤井翔悟

藤井翔悟ってだれ?


僕の名前は藤井翔悟。
株)藤井翔悟 事務所という会社の代表している。「藤井翔悟ってどんな人だ?」「なぜ話を聞くべきなのか」そんな疑問に答える目的でこの文章を書いてみた。

僕の生まれは兵庫県の篠山市って所。いわゆるド田舎ってやつだ。そこで僕はなに不自由のない家庭で育った。他の家庭と比べると正直言って少し裕福だったと思う。髪形を見てもわかるけどボンボンみたいだった。(笑)祖父も祖母もいて、とてもかわいがられて、欲しいものはなんでも買ってもらえたのをよく覚えている。3人兄弟の真ん中で長男である。

そんな感じの僕だったけど、
小学校に入るといきなり最初の壁が立ちはだかった。

もうね、学校が遠い!(笑)歩いて40分だよ。田舎の人は想像できると思うけど、都会だとなかなかないよね。40分も距離が長いとどうなるかというと、雨や風が吹いているともう最悪。登校途中におなかも空くし、学校に行くのが嫌になる。「たっちゃん」という学校から歩いて3分の友達が心底うらやましかった(笑)

中学になると学級委員キャラだった。目立つことが好きだったから前に出たかった。制服のボタンも上までしっかり閉めて、「ボタンは絶対にはずさないぜ!」ってキャラだったね。昔から人の前にたって、列をそろえたり、指示を出したりするのが本当に好きだった。「2年連続で学級委員をやるのは前例がないけどいいですか?先生!」って聞きにいったぐらいだから。

中学、高校はそんな優等生キャラで過ごしきた。ど田舎なのでマク〇ナルドもツ〇ヤもなくて、勉強しかすることがなかったからね。そんな流れで大学に行ったら、想像通り大爆発。大学で覚えたことはバイトとお酒(笑)。近くにマク〇ナルドがあるだけで興奮していたから、”田舎あるある”だね。

ゆるい感じの大学生活は過ごしていたけど、理学療法学科に所属していた。最終的に無事、病院に就職するのだけど、そこには祖母の言葉が大きく影響していたな。「翔悟ちゃん、人の役に立つ仕事をしなさい」ということをずっと言ってくれていた。今は他界してしまったけど、その教えというか導き見たなものがあったから無事にリハビリテーション科のある病院に入職できた。本当にありがとうって思う。

正直いってここまでの人生で大きく苦労したことはあまりなかった。理学療法士の国家試験だって、良い点数で受かった。自分で言うのもなんだけど、要領も良かったから、立ちはだかる壁っていったら小学校の40分の通学距離ぐらい。病院に入っても「何の問題もない」ような感覚でいた。

問題だらけの社会人1年目

でも、入職してすぐに大きな問題に直面した。それは患者さんをぜんぜん「治せない」。理学療法士の先輩に言わせると、「よくある話」と思われてしまうかもしれない。でも、田舎からでてきて、今まで順調にいっていた人間が腰痛の患者さんを目の前にして「治せない」っていうのはとてもこたえた。申し訳ないという気持ちでいっぱいになってしまった。

患者さんは毎日たくさん来てくれる。でも、患者さんの期待するレベルに対して、ぼくが提供できる技術レベルにはあまりにもギャップがあった。自分のレベルが低すぎる。患者さんは信じて来てくれているのに、こんなに低いレベルでいいのだろうか。申し訳ない気持ちから、そのうち病院に行くのも嫌になってしまった。だって治せないから。

また、日本人の習慣で、患者さんは「あんたは治らないから担当を変えてくれ」とは言わないんだよね。「ちょっと子どもの用事ができたから」と言って、気を遣われながら患者さんは来なくなる。それがまたつらかった。

申し訳ないし、治せないし、病院に行ってもつらい。入職して1~2週間足らずでこんな感情を抱えるようになってしまった。

なんとかできないか?

白衣にあこがれて、理学療法士にあこがれて、病院で働くことにあこがれて・・・それにも関わらず目の前に起こっている現実は理想と全く違う。これを打破するために、朝起きてから寝るまで、死ぬほど考えた。

悩んでいても、患者さんはたくさんくる。行動しなければ何も始まらない。だから、たくさんの時間を勉強に使うことのほかに解決策は見つからなかった。

給料の半分以上を勉強代に使い、空いている土日があれば間髪入れずにセミナーをいれる。そういうことを2年ぐらいやった。勉強会に行っても成果なんかすぐにはでないのはわかっている。でも1年ぐらいたつと、ちょっとずつ、患者さんの治し方がわかってきた。

本当に少しずつだけど、目の前の現実が変わっていった。患者さんから「先生、痛みがかなり減りました!」と言われることがうれしくて仕方がない。「これはやりがいがあるぞ」と。気持ち良いぞと。このあたりから自分の中で臨床というものが変わってきた。自分の手で患者さんの痛みを変化させる喜びは本当に大きいものだった。

疼痛治療は筋膜や筋肉をじっかり診ていくとこんなにも変化するんだということを実感した。今、僕がセミナーで伝えている「疼痛治療の3ステップ」はこの時の経験が生かされている。

自分の手で患者さんの症状を変えていけるんだ、という実感が伴ってくると「先生に担当してほしい」と指名が入るようになる。これがまた、うれしい。そんなことを続けていったら今度は病院で「あのお兄ちゃんにやってもらうと治る!!」という噂も広がっていった。

こんなこともあった。

いつもは先輩が担当している患者さんをその日だけ代診することになった。ここぞとばかりに思いっきり患者さんの痛みをとってあげて、先輩のところに戻す。そうすると「昨日のお兄ちゃんがやったやつはできないの?」と患者さんが先輩に口にするんだよ。それで先輩がちょっと困る(笑)自分の技術が患者さんから認められたかと思うと嬉しくなった。

「あの先生すごい」「あのお兄ちゃんに担当してもらいたい」といわれることも増えてきて、やっぱり嬉しい。どんどん技術を極めてもっと楽になってもらいたい。そんな気持ちでいっぱいだった。

挫折を繰り返す

でも、そんなにトントン拍子にいかないのが現実だった。僕自身はやる気があっても、病院にはそうじゃないスタッフもたくさんいたんだ。だから勉強している自分が組織から浮いている実感があった。

特に僕の病院は古い体質もあって、新しい知見や知識を取り入れることはあまりよしとしない風潮があった。本当はもっと患者さんのためにできることがあるのに。周りとの温度差は明らかだった。もっとうまくなるためにここにいるのに、なぜ、ここにいるみんなはやる気がないんだろう(ないように見える)。そう感じた。

病院での評判が良くなり、ちょっとした院内で勉強会も開催するようになってくると当然目立つ存在になってくる。先輩としては面白くなかったみたいだ。部長から「藤井、その手技もうやるな」って禁止命令もだされたりした。

この病院って、、、こんな感じなのかな?

患者さんの役に立つと思い、自腹を切って勉強して、結果が出ればでるほど周りとの温度差がおおきくなる。評価もしてもらえない気がした。患者さんからの要望があるのにそれに応えないって医療人として正しい姿なのだろうか?こんな感じでこのあたりからぼくは、院内で孤立した存在になってしまう(もちろん若さもあった)。

患者さんは良くなりたいという気持ちを強く持っている。自分自身も患者さんが改善するやり方を研究したいし、困っている人の役に立ちたい。そのためにこの世界に入ってきた。もちろんお医者さんもすごいけど、僕は自分の手でなんとかしたかった。でも、その気持ちでやっていくと余計に孤立するようだった。

17時になってカルテを書く時間になるでしょ。これがまた嫌なんだ。「またあの藤井君、やったんでしょ?」ってコソコソ言っているのが聞こえてくる。とても居づらかった。(もちろん僕の個人的な問題もある)

その後もどんどん状況は悪化していった。「おまえみたいなことをやっていると新人の教育の妨げになる」「おまえだけ違うやり方をやっていると統率がとれないからやりづらい」とかいろいろ言われてきた。ぼくの頑固さも加わって、状況が良くなることはなかった。

そして、病院をクビになってしまった。

「おまえは自分の手技をやり過ぎしている。目立ちすぎるからどちらかを選びなさい。このまま自分のやり方をやっていくのか、それともこの病院を去るか。」この選択を迫られた感じだ。

当時、ぼくは24歳。正直悔しかった。自分がこの業界に入った気持ちを思い出すと、患者さんが良くなるのを追求したかった。その中でがむしゃらにやってきた自分の努力が認められなかったことがとにかく悔しい。

でも、この出来事がきっかけで「この理学療法士の世界に入ってきた自分はどうなりたいのか?」を深く考えることにもなった。

医療業界のことってあまり表にはでてこないけど、守りの姿勢が強く、なかなか変わることのない部分もある。新しいものが入ってくるのを許さない体質も少なからず感じていた・・・

でも、ぼくには信念があった。

「良くなる事実を証明したい」もともと自分の手で良くしたいと思ってこの世界に飛び込んできた。だから、保険制度がどうとか、周りのルールがどうかとか・・・そういうものが一番ではなかった。(でも今はその大事さを知っている)

患者さんの良くなりたい気持ちを素直に受け止めて、それを叶えてあげたい。正しいことを正しくやりたい。24歳のぼくは腹が立っていたし、自分が正しいかどうかを証明したかった。それは今でも同じ気持ちだ。

25歳で起業

病院を辞めて、このタイミングで独立を決めた。周りからの反対の声も多かった。この時25歳。自分も不安だったし、家族も、同僚も同じことを言った。とはいっても、もうこの気持ちに嘘はつけない。だから勝負かけてやろうと思った。

「自分が正しいことをしているのなら、きっと社会とか世の中が認めてくれるはずだ」こう思っていた。

そんな想いから京都に整体院 京薫(治療院)を開業した。そこで自分のスキルや想いをぶつけてみたかった。ルールに縛られず「患者さんに本当に良いと思えるものを提供するんだ」という信念で・・・

ここからが本当のスタートだった。

開業した当初はさまざまなところから厳しいお言葉をいただいたし、正直、言って開業してうまくやる自信はなかった。「理学療法士になって3年、しかも25歳という年齢、実績もなにもない。こんな人に患者さんはついてきてくれるだろうか。」という周りからの声。自分の心の中からも不安に満ちた声が湧き上がってくる。

しかし、現実は違った。患者さんは僕のことを選んでくれたのだ。

「先生に出会えて良かった」
「痛みのない人生を教えてくれてありがとう」
「先生が若くてよかった。私が死ぬまでずっと診てもらえるから」

自分のやっていることで喜んでくれる患者さんがいるということが、とても嬉しかった。喜びと同時にもう一歩前に進むための勇気をもらうことができた。痛みで悩む患者さんの世界を変えることができるかもしれない。もっと喜ぶ人の顔を見ることができるかもしれない。こんな思いから、周囲からはなんて言われようと自分の魂は揺らがない、そう心に決めた。

今となってはこの経験が僕の人生において、大きな支えとなっている。人生でこれだけキツイ時期を乗り越えたから、怖いものはなにもない。そう思えるほどの体験だった。

お金で心は満たされない 
働く意味

開業して数か月で多くの患者さんから選ばれるようになった。売り上げもしっかりとたつようになったし、収入は一般的な理学療法士よりもはるかに多い。毎月多くの患者さんが喜んで来院してくれるから、自分の手元に残るお金も大きくなる。

贅沢な買い物もしてみた。周りからみたら成功者と言われるような状態になったと思う。

でも、同時に気がついたこともある。「お金だけでは心は満たされない」というこだ。毎日、目標に向かって行動している方が幸せなことに気がついた。一日が終わったときに「今日も一歩目標に向かって進むことができた」そう思えることが自分にとってのモチベーションになることも知った。

そんな時に、ある出会いがあった。僕と似たような境遇をもった仲間や師に恵まれたのだ。仲間や師と主に、自分の「働く意味」や「人生の目的」を深く考えることができた。当時の僕は復讐心に燃えていた。誰かを見返したいとか、周りからすごいと思われたいとか(若さもあった)・・・。でも、自分はそんなことのために事業をやっているわけじゃないことに気づいた。

師からいただいた、「事業の社会的な側面を考えなさい」という言葉がとても響いた。独立して、人よりも早く成功を手にいれることができたと思う。でもこれは自分の力だけでは不可能だった。患者さんが選んでくれて、大切な仲間も支えてくれた。

そして起業して自分で事業を行うのだから、自分以外の人を巻き込んで、自分のやることが世の中に影響することを学んだ。そこから2,3年ぐらい本気で考えた。今まで自分の個人的な理由で経営していたけど、もっと大切なことに気づけた。自分にはやるべきことがある。と。そんな風に、自分の中で湧き上がる気持ちがあった。それは、

「日本医療」を変えることだ。

少しでも今の医療が良い方向に進むために自分の人生をかけていきたい。誰かに言われたわけでもなく、強制されたわけでもない。自分の心の中からでてくる答えだった。

西洋医学が見逃してきた
領域を世に問う

これは僕のミッションだ。保険診療でおこなう治療と、保険の外でおこなう治療を経験した自分だからこそできることがある。患者さんはなにを求めていて、現実はどうなっているのか。自分は多くのことをこの目で見てきた。

今ならきっとできるはずだ。

例えば、保険診療や認可する仕組みをもっと良い方向に変えていくお手伝いがしたい。自分が生きている間に実現するかはわからないけど、世の中には必要だと強く思う。だからこうして今、会社を動かしている。

西洋医学の中では治療困難な疾患に対して、もっと再現性のある治療法が確立できたら・・・患者さんにとってこんな素晴らしいことはないだろう。制度の面でも、医療に関わる全ての人がwin-winになれる仕組みをつくる。そうすれば日本医療はもっと良くなるはずだ。

その想いを形にしたのが「株式会社 藤井翔悟 事務所」という組織だ。正しいと信じる事実を、勇気をもって発言する。それに賛同してくれる人が集まり、この組織は支えられている。今ではかなり多くの受講生と賛同してくれる医師がいる。それだけ支持してくれる人がいるのは自分にとっても自信になる。

僕は、受講生に希望を与えることも使命だと思っている。自分で努力して、スキルを身につけて、勇気をだして外に出ていく。それを継続することがキャリアを実現するためになるし、若くても努力すれば「夢は叶う」ことを示さないといけない。

そして治療で一番無敵なのは「徒手」だということも知ってほしい。この手でできることは無数にある。それはあなたの手であっても同じだ。この手できる可能性は無限大に広がっている。

患者さんが喜ぶその姿ほど嬉しいものはない。そんな光景を日本中で見ることができたら幸せだ。目の前の患者さんが心から喜ぶような、選択できる医療にしていきたい。

自分のやっていることが少しでも世の中に貢献できれば嬉しい。

優秀な人材を求める理由

僕はこんなストーリーを持っている人間だ。だから、この本を手にとってくれた20代の優秀な若者に集まって欲しいと思っている。僕は20代で人生が変わった。起業した経験から、1人でできることには限界があることを知っている。組織でやる意味はできるだけ遠くに行くため。大きなビジョンを実現するためだ。

僕の20代でしてきた経験は、これからキャリアを形成していきたい若者には役に立つんじゃないかと思っている。社長として採用や育成に取り組む中で、多くの人材も見てきた。他の人があまりしない経験もしてきた。そして成功者は少数である。この本を手に取る人の人生が豊かに有意義になることを願っている。

次のページからは今のあなたに役立つ情報をたくさん出している。楽しみに読んで欲しい。

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